2011年05月19日

「非らざる心」=「悲」

悲しみは存在しない。
それは無い心である。

文字造構に天才的インスピレーションをもっていた古代支那人は、“かなしみ”と云う字を「非(あらざ)る心」と云う意味でそれを組み立てた。

「悲しみ」は悲しんでいる間だけあるのであって、もう喜んでいるときには存在の世界から消え去っているのである。喜べばいくらでも喜べるのが心である。

悲しみと云うものの奥にもしみじみと味わえば喜びだけあることが判るのである。

ただ悲しみが悲しみだけで終わるのは、悲しみに捉えられて、ライオンに噛まれた小兎のように、悲しみによって振り回されるからである。

静かに悲しみを心の眼の前に置いて眺めても見よ。

それはただ美しいばかりである。

悲劇が観客によろこばれるのは悲劇の実相は歓びだからである。

オスカー・ワイルドは「悲しみの中には聖地がある」と言った。
イエス・キリストは「悲しめる者よ、汝は幸福なり」と言った。

これらの言葉は悲しみを追求するために、悲しみに耽溺するために説かれたのではない。

悲しみの外貌をとっているが、その奥地に探りを入れば悦びが実相である。

谷口雅春『光明道中記』15ページ

 
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2010年11月02日

難所の立て札


ロッキー山脈でも一番の難所だといわれている、曲がりくねった険しい道に、一台の自動車がさしかかりました。
車の中には、心配そうな顔をして、一人の男がハンドルを握っていました。
ところが、彼の目に留まった立て札には、彼を力づける言葉が書いてありました。

「大丈夫、あなたにだって通れます。何百万人という人が通ったのですから。」




川部金四郎 著 「朝の心 ―ハートに一輪の花を―」(ドン・ボスコ社)より


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2009年03月13日

安心感―自己不安を「くつろぎ」に変える心理学


加藤諦三さんの「安心感」から。

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依存心の強い人は視野が狭い

依存心の強い人は、相手の土俵に乗って戦ってしまうという結果になってしまう。
自分の土俵がない。
他人に依存しない生き方をする、つまり能動的に生きるためにまず必要なことは、相手の土俵から出るということである。
何度もいうように、依存心の強い人は、誰かとの特殊な関係がある。
その相手の特殊な人が誰かということは、依存心の強い当の本人が知っているはずである。
その人の土俵から外に出るということが、依存心克服のためには必要なのであろう。
まず第一歩は、自分と特殊な関係になっているのは誰かを見定めることであり、自分自身にも、そのような特殊な関係をつくる要素があったということを認めることである。
そして第二歩は、その相手の土俵から、自分が外に出ることである。
依存心の強い人は、その特殊な関係を持った人の土俵のなかでしか、ものごとを考えることができない。
それが、視野が狭いということである。
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依存心が強い人は、精神力、知力、技能に劣る。
さらに問題なのは、依存心が強いということは一番に判断力が劣るということ。
なので、特定の個人の基準をもと判断し、行動する。
しかし、それでは基準とした人の充分な評価は得られない。
なぜなら、達成の基準は各々違うし、能力が劣るから。
しかし、依存心の強い人は充分な評価が得られないことを、自分のせいだとは思えない。
不満は他人に向けられる。
そして、また自分とは違う基準を求めて依存先を探す・・・・
結果は同じである。
自分で考えて行動し、その結果を検証し、軌道修正し、さらに挑戦すること、そして全ての結果の責任は自分にあると決心する以外には解決策はない。

一番大事なことは、自己の責任を認識すること。
依存心が強いと結果の責任を他人に押し付ける。
責任を取る覚悟がないため、結果が出る前の行動の時点で、計画性のない無鉄砲なことをする。
誰かがなんとかしてくれると依存しながら。
覚悟とは責任が取れるかどうかではないが、しかしその覚悟をした時点で道は開けるものなのだ。




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未成熟な人間がもつ幼児的一体感

情緒的に未成熟な人間は、自分に近い人間に幼児的一体感を持つ。
親の場合なら子どもに対してそのような一体感を持つ。
つまり子どもが、親である自分の感情の要求にしたがって動くことを期待する。
先に書いたごとく、このような親は自分に近い人間に対して間隔を持って立っていることができない。
自分に近い人間の感情のあり方に自分の感情が左右されてしまう。
他人の感情に無頓着でいることができない。
不機嫌な人間は他人の不機嫌に敏感であると書いたことと同じ内容である。
今、幼児的一体感ということばで表現したのは、いろいろのことばを使い、いろいろの面からアプローチすることで、この未成熟な情緒を理解してもらいたいからである。
情緒的に未成熟な親は自分の依存心から出てくる感情を、愛情という形で正当化する。
愛情ということばで表現しても、実体は自分の子どもを奴隷化するということである。
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「(未熟な人は)他人の感情に無頓着でいることができない」「不機嫌な人間は他人の不機嫌に敏感」
これは私もいつも思うことだ。
自分に自信がある、いや自信が無くとも自己が確立し、自己と他者の境界をクリアに認識できておれば、このようなことは起きない。
所詮、自分は自分、他人は他人である。親子と言えども。
生きることに真剣に立ち向かっていれば、それは案外簡単に理解できるものだ。

べったりした親子関係ほど、自己の確立を阻害するものはないし、幼児的な親ほど子供を人形がわりにしてしまう。
最近の不況で、ほぼすべての業種で業績は悪化している。
なのに、ペット業界だけは成長を続けているとのこと。
動物を可愛がる人が増えたのか?思いどおりにならない子供より文句を言わない動物に精神的に依存する人が増えたのか?

怖い話だ。

 
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2007年12月30日

「若き人人へ」

 
与謝野晶子「砂に書く」より (大正14年)
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青年が最も青年らしい活動を示す限り、社会の文化行程はいつも青年の勝利であるはずです。

然るに、最近の我国では青年が逡巡して、老人が惰性的勢力を維持しています。

資本閥、軍閥、学閥、政党閥、官僚閥のすべてが老人と老人に阿附する中年者との集団であって、ただいまの青年はなぜかそれに打ち勝つだけの実力を現さないように見受けられます。

私は未来の新しい文化社会が、一に青年日本人の自発的創造能力に由って建設せられるべきものであることを期待します。
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2007年08月25日

「反省」なぜ私たちは失敗したのか?

mune.jpg 反省 私たちはなぜ失敗したのか?  鈴木宗男 佐藤優 著

私は鈴木宗男さんについてこの最後にこう書いておきました。

鈴木宗男さんと佐藤優さんについてはもうここで詳しく書きません。

この本の本質だけ抜粋・・・・・

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佐藤「でも、そんな噂話をするヤツは、鈴木宗男さんからお金をもらった人です。
それに加え、鈴木さんがご馳走したり、ツケを払ってやったりした人なんですよね。(笑)」
鈴木「そうそう。かつて私にすり寄った外務官僚が先頭に立って私を叩いてきた。
それが外務省の面白いところですね。」



鈴木「言うに事欠いてねぇ。
外務官僚があんなに嘘つきだとは思わなかったね。
その認識の甘さは、これは私の大きな反省点の一つですよ。」



鈴木「一生懸命働いているのに組織に裏切られたり、人間関係から事件に巻き込まれてしまう人は少なくないでしょう。
そういう人は、私たちの失敗から学ぶことがあるのではないか。」



   
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2007年04月08日

ひろ さちや 「狂い」のすすめ 壱

 
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ひろ さちやさんのことはご存知でしょうか?
東京大学印度哲学科卒業で、仏教を中心に宗教の考え方をわかりやすく解説され、特に、それを生活の中でどのように生かしていくかを書かれています。
著書は400冊以上で、どの本もわかりやすく(と言うことはまあ「気楽に生きなさい」と言うことなのです)、私も何冊か読んでいたのですが、今回出版された新刊の『「狂い」のすすめ」の内容を備忘録として・・・
(ツギハギですので、ご注意を)

『「狂い」のすすめ』

現代の日本の社会は狂っています。
こんな狂った社会で、社会が考えるまともな生活をしてはいけません。こんな社会でまともな人間になれば、われわれは奴隷になってしまいます。
だから狂いましょうよ。
狂うことによって、わたしたちは本当の人間らしい生き方ができるのです。

     1458_1.jpg

”人生の危機”といった言葉にいささか引っ掛かりを感じたのです。
というのは、わたし自身が”人生の危機”といった言葉で、病気をしたり、会社を首になったり、大学受験に失敗したり、破産をするといったようなことを考えたのです。
でも、それらは「生活の危機」であって、「人生の危機」ではありません。

わたしが言いたいのは、意識の問題です。
世間に隷属して生きようとする奴隷根性が問題です。
世の中の役に立つ人間になろうとする、その卑属な意識がいけません。
わたしたちが「生き甲斐」を持とうとしたとき、わたしたちは世間の奴隷にされてしまうのです。

われわれが病気をします。
すると医師や薬剤師が儲かる。
彼らは病人のおかげで生活ができるのだから、われわれが病気になることによって彼らを生かしてやっているのです。
われわれが死ねば、葬儀屋さんが儲かります。
世の中の役に立たない人間なんて、誰一人いませんよ。

わたしたちは世間から押し付けられる「生き甲斐」なんて持つ必要はありません。
持つと、われわれは世間の奴隷になってしまいます。

     12587_2.jpg

「人生は無意味なんだ」
わたしは友人たちに、そのように主張し続けました。

そのうちにうまい言い方を考案しました。
それは人間は、----ついでに生きている----という言葉です。わたしたちはたまたま人間に生まれてきて、生まれてきたついでに生きているだけだ。
別段、それ以上の意味なんてない。
わたしは開き直ったかたちで、そのように主張しました。

人生に意味があり、目的があるとすれば、わたしたちはその目的に向かってまっしぐらに驀進したくなります。
そうすると競走馬的人生になってしまいませんか。

偉大な芸術家になることが人生の目的だとして、ではだれが偉大な芸術家ですか?
一号何百万円もする日本画家と、生きている間は売れなかったポール・ゴーギャンと、どちらが偉大な芸術家ですか?

もしも「人生の意味」を論じるのであれば、あらゆる人間に通じるものでなければなりません。
百八歳まで生きた老婆と、たった三日間しか生きなかった赤ん坊と、その両者がともに同価値でなければならない。
天皇や皇太子の人生とホームレスの人生とが、同価値であるような「意味」があってこそ、真の「人生の意味」と言えるのです。
だとすると、「無意味」だというのが、真の「人生の意味」なんです。

ラテン語に----carpe diem----という言葉があります。
これは、「今日を楽しめ」という意味。
古代ローマの抒情詩人・諷刺詩人のホラティウスの言葉です。わたしたちはいつだって「今日」「現在」を生きているのです。
その「現在」を楽しむのが最高の生き方です。

苦しみを楽しむことができれば、あなたの人生はすばらしい人生になります。
それが「現在」を楽しむことです。

2518_3.jpg

ここから丸岡

たくさんの本を読んできました。
人生や、仕事や・・・いろいろなことに迷ったり、悩んだりしたときに。
でもその解決策はただ一つだったと思います。

「思い悩むな」

「いい本だな」と思った本の結論はすべてこれだったように思います。
でもそれが難しい?

そうですね。
難しいかもしれません。
でも思い悩んでいる自分を、思い悩まなければいいのです。
ただそれでけです。

今の社会では何かすること、何か考えることにのみ意味があると考えられているように思えます。
何もしないことは罪悪であるように・・・・・
だから定年を迎える多くの団塊の世代は、着々と「蕎麦打ち」を始めているのでは?(笑)

今の時代は、「あるがまま」が「狂う」という意味になってしまうのではないでしょうか?

2558_4.jpg

 明日のことまで思い悩むな。
 明日のことは明日自らが思い悩む。
 その日の苦労は、その日だけで十分である。
              マタイ6章34

続きはまた来週

 





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2007年03月24日

小吉の最後

 
子母澤寛「勝海舟」より

夜になったが、小吉は、相変わらずだ。
いや、ときどきなにか云いたそうに、唇を動かすような気もするが、ただ、それだけである。

お信と、麟太郎は、代る代る手頸を握って、じっと小吉の顔を見ているが、それが次第々々に、この世の人にはとても見れない安らかなものになって行くのを感じた。
小吉はいい顔であった。

どんなに喧嘩をしている時でも、その何処やらには、春の風が流れているようなものを感じさせる顔であったが、今のように、こんなに、静かな、穏やかな、安らかな顔をしている事は、はじめてであった。

口先ばかりではなく、本当に心からの覚悟が出来ていて、そして人からはなんと見られようとも、自分の一生に対して少しの悔ゆるところもなく死んでいけるのであろう。

小吉が四十九年の永からぬ息を引取ったのは、その五つ半刻であった。
嘉永三庚戌九月四日。

 
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2006年12月12日

何のための勉強か?

宮本哲也さんの紹介
4Ch 情熱大陸 2006.12.10放送



算数塾講師・宮本哲也、47歳。
試験なしで先着順に、生徒を選ばず入室させているにもかかわらず、首都圏最難関中学への進学率80%以上という驚異的な実績を誇る算数教室を主宰するカリスマ講師だ。
彼は自らを「無手勝流(むてかつりゅう)算数・家元」と呼び、質問は一切受けない、子どもたちに考えさせる、という「教えない」スタイル、いわば「指導なき指導」を展開している。自身が考案したユニークな教材と緊張感あふれる授業展開により、子どもたちに自ら問題に向かう学習姿勢を身につけさせる。
「生きる力としての学力を身につければ、ささやかな副産物として入試の合格が得られる。」そう語る宮本が子どもたちに望むことは何なのか?彼が考える算数の本当の目的とは?番組では、算数のカリスマ講師・宮本の人物像そして無手勝流算数の真髄に迫り、算数の面白さを再発見する。   「情熱大陸」ホームページより




最初の5分ほどは見逃したのですが、確かにこの紹介の通りの塾でした。
ほとんど宮本さんは何もしゃべりませんし、教えもしません。
子供達に課題を与え、子供達がひたすらその問題を解きます。
問題は黒板に書かれ、一部のパズルを除いてはプリントすらありません。
質問も許されませんので、授業が終わるとそのまま子供達は帰るだけです。
宮本さんは徹底して世話をすることもありません。

小学生の問題と言ってもナメてはいけません。
小学校5年生の塾生に出された問題が出ていましたが、それは有名中学の入試問題に相当する難易度です。
たぶんこれを読んでおられる方はほとんど?たぶんどなたも解けないと思います。

今宮本さんの出す算数パズルが教材の人気ランクトップを独占しています。
そして「もっと難しいパズルを」との要望から、宮本さんがその問題の作成をされている様子も取材されていました。
完成するまで、寝ない、食べない、教室から出ない。
たった一問に60時間をかけていました。
さて完成。

完成したパズルが解けるのか?実験です。
そこに呼ばれたのは東大生6人。
もちろん宮本さんの教え子たち。
つまり卒業して最低6年たっていても教え子達はやってくるわけです。
結果は6名中解けたのが東大大学院生ただ一人。

結果はともかくとして、その後にこの生徒たちが宮本さんを囲んで食事をし、プレゼントを渡していました。
まあテレビ取材であるということを差し引いても、この師弟関係には何か切っても切れない繋がりがあるようです。
宮本さんは生徒の世話をしないと書きましたが、趣味のスキューバダイビングのための旅先で、塾生ひとりひとりに絵葉書をだしていました。

さてここで宮本さんの言葉です。

「ここは算数塾です。
中学に合格することを目的としていない。
だって、そこにパラダイスがあるわけじゃないですよ。
ハードルを越えると、もっと高いハードルがあるわけですよ。
そのハードルを飛び越えることを喜びにしなければ幸せにはならない。」

つまり、これが教育に一番重要な「信念」だと思います。
これがあるから、これが伝わるから子供達は黙ってついてくるのでしょう。



先日の日曜日に読んだ本です。

「バカとは何か」和田秀樹

この和田先生は精神科のドクターでありますが、鉄緑受験指導ゼミナールを主宰されています。
この塾はまあ早く言えば「いかに効率よく東大に合格するか?」を目標にしています。
もちろん和田先生も東大医学部卒。このゼミナールの講師も全員が現役の東大生です。
和田先生の考えはこの対極にあるものでしょうか?

内容の抜粋です。


「受講生の中でも学校の勉強と両立しないという悩みを訴える受講生は多い。
学校の宿題が多すぎるとか、教師がうるさくて、こちらの指定した勉強ができないというのだ。
こちらとしては、志望校や本人の学力に合わせた宿題を出しているつもりだし、少なくとも、今学校の指定する宿題をすることで受験学力が上がっていないのだから、そっちを放っておいても、こちらの勉強をやってほしいのだが、なかなかその割り切りができない。
結果的に、上手に割り切れた受講生の多くは志望校の合格を果たすのに、元の学力が高かったり、まじめな生徒であるのに、学校の勉強にこだわりすぎる生徒の合格実績は芳しいものといえない。
最近、受験勉強で鍛えられる頭のよさの最たるものとは、このような、今自分が何をなすべきかの判断であったり、学校のお仕着せでない自分の勉強をできるようになることではないかと思いようになってきた。」



決してこのような考え方ややり方を批判するわけではありません。
需要と供給の問題ですし、私塾でありパブリックではありませんので。
でも、「学校のお仕着せでない自分の勉強」というのは東大に合格するためだけの勉強なのでしょうか?
和田先生は、このように要領よく合格した学生のほうが社会に出て役に立つと言われていますが、果たしてそうなのか極めて疑問です。
今大学では新入生に補習をしないと大学としてのまともな講義ができなくなっています。
それは本来人間として身につけておくべき常識的な、もしくは高等教育を受けるに当たって必要な知識や考え方の習得がおろそかになっている現場があるからだと思います。
履修単位不足の高校の存在も大きな問題になりましたし。
また和田さんはこうも述べられています。

「鈍臭い奴、要領の悪い奴は、私から見るとバカだと。」

私は、例え要領は悪くても地道に努力をし続けられる人間こそ、社会に出て役に立つと思っています。
所詮付け焼刃は付け焼刃。
社会に出れば荒波でそんなものはすぐにはがれます。
困ったことは、付け焼刃がよく切れると思っている付け焼刃が多いということでしょうか。

つまり生きることの目的をなんととらえるかです。
大学に入学することが最終目標ではないはずです。
大学が最後のパラダイスではありませんから。

私は私の2人の子供達には、自分の目標は自分で決めるように言ってあります。
大学に行くのか行かないのかも自分で決めればよいと。
ただ目標が決まれば、それに到達するための努力は決して惜しんではならないが、しかし受験勉強だけでもダメだとも教えます。
つまり、本を読み、映画を観て、人とも交わり・・・人としての内容を膨らます努力を今のうちにしておかないといけないとも。

大学は所詮4年間です。
それが最終ゴールではありません。
社会に出たときどのような人間になっているか?
最終的には人生80年、最後に目を閉じるときにどのような心持ちで永遠の眠りにつくことができるのか?それが問題ではないでしょうか?
勉強とはその為のものでしょう。

最後に宮本さんの言葉です。
「私は教室にいたい。それは子供達からエネルギーをもらえるからなんだと思います。なんと言っても子供達がすばらしい。」

これが教育者の言葉ですね。

 
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2006年02月12日

「中国人の愛国心」3.徳

 
「中国人の愛国心」2.歴史より続く

tyuugoku.gif 「中国人の愛国心」

著者の王敏は中国・河北省に生まれ、現在は法政大学教授。
専攻は日中比較」研究。

中国人からみた日本人と中国人の感性の違いと、それを生み出した特に中国の歴史的風土の解説であり、非常に説得力があり、また理解しやすい。
あの反日デモはなぜ起こったのか?
なぜ中国はあれだけ靖国問題にこだわるのか?
いつまで「謝れ、謝れ」と言い続けるのか?

これらが一挙に解決できた。
なおかつこれからの対処法も理解できる。

以下自分自身のまとめとして

中国人の心を読み解くキーワード
1.愛国
2.歴史
3.徳
4.中華
5.受容と抵抗

3.徳

中国人はなぜこれほどまでに日本に「戦争の反省」を求めるのか?

それは、中国人の精神性の根幹そのものに「戦争への反省」があるから。
中国では殷、周王朝の後、春秋戦国時代という戦乱の時代が続いた。
この時代には孔子などたくさんの思想家が生まれ、諸氏百家と呼ばれた。

彼ら思想家のテーマはすべて「国家の統一と平和」に集約される。
諸氏百家たちの根幹にあるのは、春秋戦国時代の「戦争への深い反省」だった。

「戦争への反省」は戦後になって突如言い出したものではなく、二千年以上もさかのぼる聖人君子たちがその起源であり、武力の代わりに国の根幹となるものが「徳」であった。
政治システムにおいても、王朝の創設までは将軍が力を持つが、それ以後は武官より文官のほうが上に位置づけられる。

日本では、人格を判断する場合に「いい人」「やさしい人」などが基準となるが、中国では「徳があるかないか」が大きな判断基準となる。
皇帝には特に高い「徳」が要求される。

中国はキリスト教のような宗教とはまったく縁のない形で倫理道徳を確立した、特異な国である。

中国人の考え方の中で、一番上位にくるのは「天意」であり、これを受けて国を治めるのが「皇帝」。
皇帝は「天意」に基づいて「徳」を持って国を治めなければならず。皇帝に「徳」がない場合は、「天意」によって、民衆が皇帝を辞めさせられるという思想が今も生き続けている。

「皇帝に逆らったから愛国心がない」という考えはなく、むしろ徳のない皇帝の交代を迫ることは愛国行為のひとつとされる。
これが「愛国無罪」。

反日デモにしても激しい表現に慣れている中国人は、「ああ、またやっているな」という感覚である。

 
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2006年01月29日

「中国人の愛国心」2.歴史

「中国人の愛国心」1.愛国より続く

tyuugoku.gif 「中国人の愛国心」

著者の王敏は中国・河北省に生まれ、現在は法政大学教授。
専攻は日中比較」研究。

中国人からみた日本人と中国人の感性の違いと、それを生み出した特に中国の歴史的風土の解説であり、非常に説得力があり、また理解しやすい。
あの反日デモはなぜ起こったのか?
なぜ中国はあれだけ靖国問題にこだわるのか?
いつまで「謝れ、謝れ」と言い続けるのか?

これらが一挙に解決できた。
なおかつこれからの対処法も理解できる。

以下自分自身のまとめとして

中国人の心を読み解くキーワード
1.愛国
2.歴史
3.徳
4.中華
5.受容と抵抗

2.歴史

日中のずれが起こるわけ→「中国人にとって『歴史』は『過去』でなく『現在』」

中国人は「歴史的に見れば」を好み、日本人は「国際的に見れば」を好む。
問題解決法を探るとき、日本人は「アメリカでは・・・」「ヨーロッパでは・・・」というような事例から、欧米的な定量的な分析手法を使う。
中国人は過去の似たような事例をすべて取り出し、その解決法、結果などを分析して現在のことを処理する。
「孔子はこう述べている。」「毛沢東はこのようにした」などが引用される。

日中国交回復のときに、「戦争を引き起こしたのは日本の一部の軍国主義者であり、多くの国民は犠牲者だ」という中国首脳の説得に一応中国人は納得した。
と言うより納得させられた。
根の部分は掘り返さずに両国で合意したつもりだった。

しかし、戦略戦争を主導したA級戦犯を日本の首脳が参拝することによって、再び根を掘り返されたと中国人は感じている。

いわば「だまされた」と。

そのため、もう一度、根の部分を文字通り根本治療をしなければ、この問題は解決しないと中国側は考えている。

「中国人の愛国心」3.徳 に続く

 
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2006年01月22日

「中国人の愛国心」1.愛国

tyuugoku.gif 「中国人の愛国心」

著者の王敏は中国・河北省に生まれ、現在は法政大学教授。
専攻は日中比較」研究。

中国人からみた日本人と中国人の感性の違いと、それを生み出した特に中国の歴史的風土の解説であり、非常に説得力があり、また理解しやすい。
あの反日デモはなぜ起こったのか?
なぜ中国はあれだけ靖国問題にこだわるのか?
いつまで「謝れ、謝れ」と言い続けるのか?

これらが一挙に解決できた。
なおかつこれからの対処法も理解できる。

以下自分自身のまとめとして

中国人の心を読み解くキーワード
1.愛国2.歴史
3.徳
4.中華
5.受容と抵抗

1.愛国

日本で「愛人」といえば不倫や浮気相手を指すが、中国では妻や夫のことを指す。
ここまでではないが、「愛国」のニュアンスも日本と中国では違う。

中国では孔子の昔から、学ぶことの目標は、自分を愛し、国を愛し、国にとって役立つ人間になること。
このような風土があるから「愛国」を叫ばない知識人は知識人とみなしてもらえない。

典型的な愛国のモデルであり模範は南宋の時代の岳飛。
岳飛は北方から進軍してくる金軍に対し徹底抗戦をした。
しかし金との講和をもくろむ秦檜によって無実の罪に陥れられ、獄中で毒殺される。

杭州の岳飛廟に、岳飛の墓に向かって上半身裸でひさまずく秦檜夫婦の像がある。
今でも多くの中国人が秦檜の像を棒で叩いたり、つばを吐きかけたりしていく。
九百年たっても多くの中国人が秦檜を憎んでいる。
(びっくりするが、これが中国人と日本人の違い)

中国においては「中国の文化を守ること」「侵略者への抵抗」が愛国の基本であり、「侵略者との妥協」は裏切り者として売国奴の汚名を着せられる。
(だから中国の外交はああいう反応になるわけだ)

近代中国の愛国教育は日本からその重要性を学んだ(戦前)ので、当初の愛国主義は決して反日ではなかった。
それが、欧米列強や日本の侵略により、中国古来の伝統である「侵略への抵抗」の要素を強めていく。
日本の侵略が進めば進むほど「愛国=反日」の要素が強まっていく。

先般の反日デモで掲げられた「愛国無罪」のスローガン。
ほとんどの日本人は、
「愛国にのためならどんなことをしても無罪」
と捉えてしまうが、この言葉には歴史的な意味がある。

これは1930年代の七君子事件に端を発している。
当時抗日運動をしていた7人が国民党政府に逮捕された。
この逮捕に対し、孫文夫人の宋慶齢らが政府の民主主義運動の鎮圧に抗議し、7人の釈放を求めた。
そこで無罪とするための理由が「国を愛する気持ちには罪がない」という「愛国無罪」である。

このようにもともと「愛国無罪」は「国を救う運動が悪いのなら、われわれも入獄させろ」という運動から始まった政治的な言葉である。
「愛国のためなら、物を壊しても人に危害を加えても何をしても無罪」という意味で用いられているのではない。

中国では問題解決の手段として「愛国」が持ち出される。
戦争は嫌いでも「愛国」を持ち出されたら戦わざるをえない。
一人っ子政策も国を愛する行為として導入されている。

「中国人の愛国心」2.歴史に続く

 
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2005年07月24日

「だからあなたは騙される」安斎育郎

4047040258.09.LZZZZZZZ[1].jpg 「だからあなたは騙される」

私が高校1年の時に父親が他界した。
父に会いたかった私は、葬式が終わってから毎日のように暗いところ暗いところに行った。
でも父は現れなかった。

亡くなる一週間ぐらい前から、父は私の顔を見るたびに泣いていた。
家庭の事情も複雑であったし、私の行く末が心配で仕方がなかったのだと思う。
それでも、父は霊となって私に会いに来ることはなかった。

それ以来、私は幽霊を信じない。
いて欲しいとは思うが。

40歳も過ぎ、ようやく0.8人前ぐらいにはなってつくづく思うのは、死んだ人間より生きている人間のほうがよほど怖いということ。
この本は、そのようなデタラメな事象を、調査結果をもとに検証し、「騙されない方法」をわかりやすく伝授してくれている。

1.聖者サイ・ババの手品
あたかも空中から、いろいろな品物を取り出し日本でも一時ブームとなったサイ・ババ。
しかしビデオテープで検証すると、手のひらに仕込んだものを手品とおなじように取り出しているにすぎない。
またマスコミを利用し、事実無根のエピソードをあたかも事実のように報道させている。
いまだに日本にもこのサイ・ババの信者は多い。
かの超有名経営コンサルタントのF氏もその1人。
また、サイ・ババにより性的虐待の被害にあった人は、16ヶ国200人以上に上る。

2.こっくりさん
もちろんコインは人間が無意識に動かしている。
このことは、1853年にイギリスの科学者ファラデーが実験で立証し、「ザ・タイムズ」に掲載された。

3.UFO
有名なアダムスキー型UFOの写真の上部には円盤を吊り下げている糸が写っている。

4.ミステリーサークル
ダグ・バウアーとデイヴッド・チョーリーという2人の老画家が自分達がやったことを白状している。

5.ユリ・ゲラー
ユリは15歳でイスラエルのスパイ組織に加わり、スパイ独特の技術を2年間にわたり習得した。
そして、シピという青年とマジックの勉強をはじめ、やがて劇場やナイトクラブに出演するようになる。

6.フォックス姉妹のポルターガイスト現象
1848年アメリカで起こった事件
最初は幼い姉妹が、糸をつけたリンゴで音をたてていたずらをしていたものが有名となってしまう。
引っ込みがつかなくなった姉妹は、やがて自分の関節を操作して自在に音を立てることが出来るようになる。
しかし、罪悪感にさいなまれた姉妹はやがて事実を白状した。

7.雪男のビデオ
あれには少しジッパーが写っている。

このような例を調査結果をもとに「騙されやすい」例としてあげた上で、「騙されない」対策を伝授している。

1.「そんなことができるのなら、どうしてこうしないのか」と考えよう。
細木数子さんに未来がわかるのなら、なぜ自分が脱税で摘発されることがわからなかったのだろう?(知ってます?この話。このあたりはまた来週にでも)
改名したモンキッキは運気あがったのか?

2.「人間は騙されやすい動物だ」ということをしっかり認識しよう。
以前、あるパーティーでマジシャンを呼ぶことになった。
その担当が私だった。
そのマジシャンはプロショップを経営しており、やりたがりの私はついでに小道具を何点か買って、手品を教えてもらった。
20〜30分練習して、そらあのパーッと花のでるマジック、あるでしょ。
あれをスタッフの目の前でやってみた。
当然そんなものはすぐにばれると思っていたが、「えーっ。ぜんぜんわからへん。」と驚いていた。(お世辞でなければ)

etc.

ホームページのリニューアルのために、デザインの参考にしようといろいろな歯科医院のサイトを見ている。
とんでもないサイトがあるのだが、立場上ここにはリンクできないので、それらはこのブログによく登場しているFさんと楽しんでいる。

さあ、下の写真をよーく見てください。
皆さんこれをどう思いますか?

c-before[1]copy.gif




これは銀座にある某歯科医院の
「歯を白く整えるセラミックの治療」のページにある写真

「きれいに白くなっているなー」と思いますか?
思ったあなたは騙されます。

じっくり見ましょう。
左右の写真は全く同じもの。
髪の毛、服のシワ、影など全く同じです。
そんなことはありえませんから、歯の部分だけを画像処理して白くしてあるわけです。


コワイ コワイ


   
posted by maruoka-yoshimitsu at 22:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 丸岡書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月13日

「半島を出よ」村上龍



今日の午前中は複数の大きな処置があり、静かな戦争。
そのような気配はあまり患者様には気づかれない工夫はしている。
何とか乗り切り昼休み。
誰かが涙ぐんでいる。(もちろん患者様ではない)
ここは戦場であるのだから、新兵は鍛えられなければならない。
それは決してイジメではなく、自らが生き残っていくための訓練である。
また統率がみだれることがあったり、たった一人のほんの些細なミスで部隊が全滅することもありえるのだ。



ガンバレ!

涙をふきながら歯を食いしばってやり遂げたことは、いい加減にやったことの100倍に相当するよ。
このマルオカ部隊の下士官のお母さんたちも泣きながら成長していった。
一人は私の目の前でいつもぼろぼろと大きな涙をこぼしていた。
一人は泣かなかったが、就職してから5〜6年たった自分の結婚式の前に、私(マルオカ)の前で泣くのは悔しいので、トイレに行って泣いていたと告白した。

などと考えつつ、日課の内田樹先生のブログをチェックすると、これについて少し触れておられた。


「半島を出よ」 村上龍
もうこれ読まれました?

えー。実は、そろそろ上巻の終わりなのだが、全く面白くない。
もう面白くなるか?そろそろか?と期待しながら読んでいたが、全く面白くなってこない。
だるい小説である。
村上龍がニュース23に出たときに、筑紫哲也が「いやー。本当に面白い小説ですね。」とべた褒めだったので、積んどいた中からあわてて探しだし読んでみたのだが。

やはり小説ですのでね、もう少し奇想天外を考えてもらわないと村上さん。
これって、そんなにびっくりするようなことではないですよ。

日本が経済的に行き詰まり、世界のお荷物になっていて、当然政治家も自衛隊も頼りなく、日本人もおかしい奴やホームレスが増大。
そこに反乱軍をかたった北朝鮮の特殊部隊が福岡ドームを占拠、観客を人質に。
後続部隊が飛行機で地方空港に着陸。
日本政府は福岡を封鎖。

福岡ドームは別にして、将来一番起こりやすいシナリオでしょう?
村上龍の売れる本はいつもはずれだと思う。
ガマンするのはやめて、Amazonのマーケットプレイス行きにします。


「五分後の世界」 村上龍
これは、続編の「ヒュウガ・ウイルス」と共にできは良い。
このころから村上さんの近未来の舞台は九州だった。
唯一違うのは、日本軍の兵士を人間離れした能力を持つ超人のように描写していたこと。
この2冊は面白い。(だが何度も言いますが、村上龍さんは通俗小説家です。この2冊の内容にも意味は全くありません。)


「13歳のハローワーク」 村上龍
これは本屋でパラパラとめくって、「一体この本は何?おまけに2700円もする。」と思いやめた。
でも結構売れたよね。
こまめに稼ぐね。


「裸者と裸者---孤児部隊の世界永久戦争」 打海文三
『破滅へ向かう世界と日本を予言する、傑作長編。大問題作!
近未来。内戦下の日本。両親を亡くした七歳と十一ヶ月の佐々木海人は、妹の恵と、まだ二歳になったばかりの隆を守るため、手段を選ばずに生きていくことを決意する。』Amazon

近未来の内戦状態の日本を描いた作品としてはこちらのほうがはるかに面白い。
北朝鮮は出てこないが、『小説としてのリアリティー』を感じる。
「半島を出よ」の想定は、いくらなんでも自衛隊でも持っているマニュアルみたい。


まあ、同じ迷彩柄でも本当の戦争よりこちらのほうが良いですね。

今日は歯から離れたいマルオカでした。
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2005年05月31日

「白い雌ライオン」

4488209041.09.MZZZZZZZ.jpg 「白い雌ライオン」 ヘニング・マンケル

イメージとしては「立方形のミステリー」
何か雰囲気が違うなぁと思っていたら、作家はスエーデン人。
読んでから知ったのだが、シリーズの第2作。しかし、この本単独でも充分に楽しめる。

時代は、ネルソン・マンデラが釈放され、デクラーク大統領が統治する南アフリカ。
黒人弾圧を目的とする南アフリカの中枢のボーア人の秘密結社が、マンデラの暗殺を計画する。
しかし、狙撃主に選ばれたのは貧しい黒人。

この暗殺計画の準備に選ばれるのがスエーデンの地方都市イースタ。
田舎のイースタ警察のさえないバツイチ刑事ヴァランダーが主人公。
自分のアパートに泥棒が入り、ステレオと大事なコレクションのCDをごっそり盗まれたり、以前に知り合った女性に未練一杯の手紙を書いたり、仲の悪い父親に手を焼いて悩み、そんなヴァランダーが、ある殺人事件をきっかけにこの暗殺計画に巻き込まれていく。

イースタ警察の仲間たちや、10年も会っていない友達に助けられて、いつの間にかダイ・ハードばりの活躍をみせる。
とんでもないどんでん返しもなく、淡々とストーリーは進んでいくのだが、グイグイと引き込まれていく非常に「きれい」なサスペンスといってよい。
かなりの大作だが、読んでみる価値のある作品といってよい。

評価 ★★★★☆
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2005年04月17日

「父 開高健に学んだこと」開高道子

帯つきの新品のまま本棚の隅に、10年以上あった本。
昨夜風呂上りに本棚を眺めていたら目に付き、手にとって読んだ。
先日開高健について少し書いたので頭の端に残っていたのかも知れない。

開高健の本は高校から大学にかけてほとんど読んだ。
「文豪」というと、私は開高健を一番に思い浮かべるだろう。
膨大な読書量、フィッシング、スコッチ、グルメ、グルマン、シガー、パイプ、旅、戦争・・・
ヘミングウエイのイメージか。
研ぎ澄まされた文体、自然を愛し、人を愛し、美を愛し。
ベトナム戦争にも記者として従軍し、それを深い文学作品に昇華した。
この「輝ける闇」は最高傑作と言う読者も多い。

「フイッシュオン」「オーパ!」など、アマゾン、アラスカ、モンゴルの秘境での釣り紀行はあまりにも有名。
奥さんは詩人の牧羊子、娘はエッセイスト。

開高健の没後、文学碑を建てるときそのための石を選んだが、もう先に買っていた人がいた。
しかし、その人は事情を聞いて、
「開高先生だったら僕の尊敬する唯一の文学者だから、こちらがひきさがろう。」
と言ってゆずることになる。
そういう作家だった。
 
このようなエピソードを開高健の一人娘の道子さんがエッセイにまとめてある。
さすがに、文体、テンポは父親譲りのものを持つ。

「ビデオっちゅうもんはええようであかんなあ。
一日中、アホみたいに自由に観れるのはいいが、観っぱなしになって考え事が出来ん。自由の悦楽は、やっぱり自分で規制していかんと、とどめないわ。」

「先生は文字通り小心肝大の人でした。僕らはそれに頼りっきりだったんだなあ、と今にして有難いことだったと思います。」(アマゾンに同行したスタッフ)

「小説家はやな、ミミック(物まね)の特技を持っとるのや。」

あと、道子さんが工学部に進学すると言ったところ、開高健は1年間書斎に閉じこもり道子さんと口をきかなかった。結果として道子さんは文学部に進学する。

このような開高健の横顔、素顔を垣間見ることができるが、帯に遺稿集と書いてあったのに気が付かなかった。
開高健がなくなった7年後、道子さんは42歳の生涯を閉じたのである。
少し批判めいた感想があるのだが、それはやめておく。

開高健の作品は最近私も読まなくなってしまったし、メディアでも取り上げなくなった。
亡くなる何年か前から、開高健はジンギス・ハンの墓探しに情熱を傾けておられた。
私もそのとき、ジンギス・ハンの墓は見つかっていないことに気づいた。
こんな夢を追い続けた、イラチで愛すべき大阪のおっちゃんだったなあ。
また、ゆっくり読み返してみよう。
posted by maruoka-yoshimitsu at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 丸岡書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月06日

「報復」ジリアン・ホフマン

太陽の街フロリダは、キューピッドに怯えていた――それは若い金髪美人ばかりを狙い、何日も被害者をいたぶったあげく、生きたまま心臓をえぐり出して殺す連続殺人鬼の名だ。
捜査は難航したものの、偶然、キューピッドが捕らえられる。やり手と評判の女性検事補、C・Jが担当することになったが、法廷で犯人の声を聞いた彼女は愕然とした。それは今なお悪夢の中で響く、12年前に自分を執拗にレイプした道化師のマスクの男の声だった! こいつを無罪放免にしてはならない――恐怖に震えながらも固く心に誓うC・Jだったが、次々と検察側に不利な事実が発覚しはじめ……。期待の大型新人による戦慄のサスペンス。

・・・の推薦文。
帯は「全国の書店員が熱狂!」だった。これは以前「博士の愛した数式」で騙されているのだが、まあミステリーだからと思って買ったのだが・・・

確かにストーリーはテンポ良く進むし、最後はパッパとページをめくってしまうが、最後のどんでん返しがねー。ちょっとねー。
途中からわかってしまうのだが、「それは卑怯やろ」と思ってしまう。それやったら意外な結末は誰にでも思いつくぞという感じで、読後感はよろしくない。
WBで映画化が決定したとのことだが、私は見ないでしょうね。

評価 ★☆☆☆☆
posted by maruoka-yoshimitsu at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 丸岡書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月30日

「魚が飛んで成功がやってきた」

FISH!の社長が自ら明かす活のいい組織のつくり方」

以前に紹介した「フィッシュ!―鮮度100%ぴちぴちオフィスのつくり方」はパイク・プレイス魚市場を物語に仕立てたベストセラーだったが、今回のこの本はその社長ジョン・ナカヤマが実際に自らの経験を書いたものである。

ビジネス書の大部分はいわゆる「きれいな」仕立てになっているが、これは現場の生々しい経験談とその元になるビジョンが生の声で述べられている。
魚市場であるから、その従業員はきれいなオフィスで働くホワイトカラーではなく、前科があったり、元漁師であったりの荒くれ者が多い。
そのなかで、「世界に名だたる」魚市場になるとのビジョンを浸透させ実際にやり遂げた物語。

「パイプ・プレイス魚市場の顧客サービスとは何かと言えば、それは客の話を聞くとき、自分自身のことは忘れ、注意の全てを客に向け、話を聞くという点に尽きる。」

ナカヤマ社長はここでわかりやすい考え方を示している。
それは「やり方」と「在り方」。
「やり方」はもちろんビジネス書でよく書かれている「計画し、実行する方法」。
「在り方」とは「ある場面における意思の反映」

「人が望むことに配慮したいと思って行動しているのであれば、それは気配りのできる『在り方』といえる。しかし、いくら気配りをしてもそれが自分のためであれば、『やり方』としての気配りであって、『在り方』としては自己中心的といわざるを得ない。」

この『在り方』を徹底して従業員の心のなかに浸透させることが大切だとナカヤマ社長は説く。

後半1/3から述べられている、問題のある従業員への指導の仕方、職場のトラブルの解決方法は具体的でかなり参考になる。

「昔のパイク・プレイス魚市場では、いつも何かがうまくいっていなかった。私は責める相手を探していた。・・・・・しかし私達は、今では問題が起こったとき、どう対応すればいいかよくわかっている。責める相手を探したり、何が悪いか突き止めようとするのではなく、すべての人々の人生をよりよいものに変えるために、一人ひとりがやるべきことを責任を持ってやればいいのである。」

全体のまとまりが少し足りないが、従業員とのコミュニケーションの取り方などは明日からすぐに役に立つものである。

評価 ★★★☆☆
「魚が飛んで成功がやってきた」


posted by maruoka-yoshimitsu at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 丸岡書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月10日

「パークライフ」吉田修一

寝る前に読む本をと思って買った。
2002年の芥川賞受賞作品。

バスソープや香水を扱う会社に勤める今時の青年が、地下鉄の中である日ふとしたきっかけで、今時の女性と会話を交わす。
その女性は、青年がいつも昼休みを過ごす公園で同じように昼休みを過ごす女性だった。

内容はこれだけ。

芥川賞選者の村上龍の選評は
「『何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていない』という、現代に特有の居心地の悪さと、不気味なユーモアと、ほんのわずかな、あるのかどうかさえはっきりしない希望のようなものを獲得することに成功している。」
なのだが・・・

高校生のときに、ラジオの深夜放送で流れた村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が芥川賞に決まったときの報道を覚えている。
「暴力とセックスとドラッグと・・・」
早速読んで、なぜこれが芥川賞に選ばれたのか不思議でしかたがなかった。
芥川賞の失墜はここから始まったと思う。

村上龍は私は嫌いではない。
しかし、それは通俗小説家としての村上龍である。
そして、彼は小説家をなりわいとする、ビジネスマンでしかない。
中学の時に、『純文学』の意味がわからず調べたことがある。すると、「読者を意識せずに書かれた小説」といった意味のことが書かれていた。
私は『純文学』とは、「人の心の中から昇華するあらゆる人生の意味を文字で表現したもの」と思う。
一昨年のあの受賞作は、その評「今時の女子高校生が、何気ない日常を綴った・・・」で、全く読む気がなくなった。
だれが、今時の高校生の何気ない日常など知りたいのだろう?
芥川賞は純文学作品に贈られるものである。これらは純文学などでは決してない。

この「パークライフ」も全く内容、意味がない。
村上龍の感じたという不気味なユーモアは、そのかけらもない。
スターバックスのことがだらだら述べられているだけ。
それなら、この本は直木賞ものである。
中篇なのだが、終わり方があまりに唐突で、同じ文庫の次の中篇に続くのかと思ってしまった。

評価 ××××
posted by maruoka-yoshimitsu at 08:56| Comment(0) | TrackBack(2) | 丸岡書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月30日

「遺産」D.W.バッファ

舞台はサンフランシスコ。
次期大統領を目指す上院議員が路上で射殺され、黒人医学生が容疑者として逮捕される。ゆきずりの殺人として処理したい検察に対し、陰謀のにおいを嗅ぎ取った被告側弁護人アントネッリ。
事件の鍵を握る人物から予想をはるかに越える罠の存在を知らされるが・・・・・

弁護士アントネッリシリーズの最新作。
こういう法廷物をリーガル・スリラーというらしい。
暇つぶしのために何気なく手にとって買ったが、今年一番のサスペンスだった。
序盤は淡々とした上品な文章で展開していくのだが、まあこれ以上の説明はやめたほうがよいでしょう。
ちなみに著者も弁護士。
明日まだ書店は開いているでしょうから、さっそく走って正月に読まれたい。

評価 ★★★★☆
Amazon 遺産
posted by maruoka-yoshimitsu at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 丸岡書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「壊れた脳生存する知」山田規畝子

3度の脳出血を経験し、高次脳機能障害に陥った整形外科医の闘病記録である。
脳出血のために空間認識がうまくいかず、便器に足をつっこんだり、もちろん記憶障害、換語障害のなかで、出産、脳外科医の夫との離婚を経験し、子育て、老人保健施設の施設長として職場復帰などの経験が書かれている。

「いつのころからか、私はよほどのことがないかぎり、びっくりしたり感動したりしなくなっていた。おそらく女医なんて似たり寄ったりではないだろうか。大学に入ると死体を切り開き、手をどその脂でぬるぬるにし、・・・患者さんの訴えは『そんなもんよ』でかたづけ・・・これが女医の哀しい性である。」

と書かれているが、その通り。この本は記録というよりカルテである。
カルテは素人が読んでも感動はしない。医療関係者が読んで初めてその裏の本当の苦労がわかる。
あまりにあっけらかんとしており、大変だったことはよく理解できるのに、感動的ではない。
脳の仕組み、働きを理解するのにはよいのだが。

著者は整形外科医であることが好きでたまらないと述べているが、私はもし生まれ変われるとしたら、歯科医の道は選ばないかもしれない。
というのは、大きな処置であればあるほどその患者さんの辛さを考えてしまう。たとえしかたがないことであったとしても、治療がうまくいかないときは自分を責めてしまう。これは結構辛い。
もちろん自分の限界も良く知っている。

一度お会いして話をしてみたい。
私の予想が正しければ、離婚の状況などから考えると、ちょっと退屈な人かも知れない。
本の帯には「感動の輪が広がっています!」とのコピーがあるが、そうかなあ?

評価 ★★☆☆☆

posted by maruoka-yoshimitsu at 13:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 丸岡書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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