私の診療哲学はパンキーフィロソフィーである。
では哲学とは何か?
哲学は全ての学問の基礎となるものである。
つまり、何のためにその学問をするのか?
それを追求するのが哲学である。
物理学が哲学を失い原子爆弾が生まれた。
生命科学が哲学を失うとクローン人間が生まれる。
生命が生きること、これは壮大な科学である。
私の生きる科学の根源になる哲学は「老子」である。
忙しく心を失いそうな時、天狗になりそうな時、心のあり方に悩む時、折に触れ「老子」を読み、心を落ち着かせる。
古来の中国は偉大な人物を傑出してきた。
兵法で有名な孫氏をご存知だろう。
いわゆる「孫氏の兵法」である。
孫氏は二千五百年ほど前の人。
兵法というと、いかに戦いに勝つか?そのテクニックに重きが置かれるが、孫氏の兵法の中核をなすのは、
戦わずして勝つ。
勝算なきは戦わず。
の二点であることはあまり知られていない。
老子も同時代の人である。
しかしほとんど記録は残っておらず、出生地、本名すら不明な人物である。
かなり老けた外観であったので、「爺さん」の意味の「老」に「先生」の意味の「子」がつき「老子」と呼ばれる。
エピソードはまたいずれ書く機会はあろうかと思うので、今日は老子が残した「道徳経」の「道の巻」のあまりに有名な冒頭の言葉について。
道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常無以って其の妙を観んと欲し、常有以て其の徼を観んと欲す。
此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。
同じきをこれを玄と謂い、玄の又た玄は衆妙の門なり。
以下は私の勝手な解釈である。
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全ての道(真理)は、決まった何かのものではない。
いったい真理は誰が決めるのか?
正しいと思われえる真理でさえもそれは移り変わるものなので、「真理」とも言い切れるものではない。
無が世界の始まりであるが、それは無という観念に単に無と言う名を与えているにすぎない。
それは無という、本来は名づけることさえ、考えることさえできないものだ。
これが世界の始まりである。
そして世界ができてからいろいろなものに名前が付けられた。
本当は理解できない無を理解したように思うと、其の妙(本質)を見極めようとするし、名前の付けられる現実ばかりに目が行くと、其の徼(キョウ 結果)にしか目が行かない。
だから、本当の道を知るためには、無為自然を旨とし、へりくだって優しく、小ざかしさを捨て、欲を捨てなければ為らない。
なぜならば、名(現実、物質、人間の言葉)があれば、そこに欲が生じるから。
無も名(有)も、此の二つは同じ源から出てくる。
名がつくこととつかぬことの違いしかないわけだからこれは当たり前のことだ。
だから無を完全に理解することはできない。
この同じ源を「玄」と言う。
この「玄」が宇宙の根源である。
玄は全ての観念を超え、闇にも似て、暗く果てのない彼方、その彼方にまで広がる。
この神秘の海をかき分けて進むと、人はその命の入り口に近づくことができる。
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突然何を言うのかと思いました?
今週末は多忙だっだし、「医」の本質について考えさせれる出来事もあり、もう一度自分の基本に戻ってみようと思った。
わかるようなわからない話だが、これが「爺さん」の思想の根本である。
2005年10月02日
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