驚くような中国政府の対応だったけど、「それみたことか」ではいけないなぁ。
犠牲になったのは一般市民だったわけだし、悼む気持ちを忘れてはいけない。
こんなこと・・・
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「遺体どこにもない」鉄道事故家族…死者40人読売新聞 7月25日(月)22時33分配信
【温州(中国浙江省)=角谷志保美】新華社電によると、中国浙江省温州で23日夜起きた高速鉄道の追突、脱線事故による死者は25日夜までに40人となった。
当局は「これが最後の数字ではない」としており、行方不明の乗客も多いため、犠牲者はさらに増えそうだ。
「市内の病院は全部回った。遺体もすべて確認したが、どこにもいない」「列車とともに地下に埋められたらたまらない」。
温州市内の遺体安置所には、不明乗客の家族や友人ら約20人が集まり、担当者にすがりついて訴えた。テレビのインタビューに涙を浮かべながら答える者もいた。
鉄道省は、24日深夜の記者会見で死傷者数を公表したが、不明者がいるのかどうかについては説明がなく、疑心暗鬼を生んでいる。
また、妊娠7か月の妻(28)と義母(52)ら家族5人を亡くした浙江省の男性は、「政府は生命よりも運行再開を優先した」と声を荒らげた。男性の家族が24日夜、運行再開のために高架から落とされた車両の中で発見されたためだ。
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もしこれが事実なら家族は本当に無念だろう。
なぜか、共産主義(国家)は宗教を否定する。
ソビエト時代もそうだったが、現在はロシア共和国となってロシア正教の復活が公に認められ始めている。
ミサに、プーチンが出席したニュースも報道されていた。
宗教・・・・・それは何だろう?
松岡正剛さんが書いていた。
人類の謎の三大発明は、宗教、貨幣、言語だと。
「言語」というと、独特の鳴き声や超音波で意思疎通をするヒト以外の生物は存在する。
確かにそれも言語といえば言語なんだが、言語の本当の価値は、「抽象的」な思考を助けるものだろうと思う。
言語がなければ抽象的な思考はできない。
だって、今も日本語で考えていません?
じゃあ「貨幣」は?
お金は確かに手にすることができる具体的なもの。
しかし、「猫に小判」と言いますね。
また、自給自足や、物々交換で生活をしているヒトにその価値と意味を理解させることは難しい。
これは抽象的概念だから。
ちょっと余談だが、後に関係するので書いておくが、言語と同じで、数の概念がある。
一桁の数字(の概念)しか持たない部族がいる。
それ以上は、「たくさん」。
しかし、それは私たちが持っている「無限大」の概念とは全く違う。
またそういう部族は「ゼロ」の概念もない。
「ゼロ」と「無い」は違う。
「ゼロ」がないんだから、「マイナス」などということは全く理解できない。
でも、こんな人達はとても幸せなんだ。
だって、「もっともっと」とは思わない。
「ゼロになったらどうしよう?」という恐怖感も持たない。
その日必要な分だけ、自分が数えられる分だけあればよい。
無くなっても明日はまた明日。
明日また採ったらいいのに、マイナスなんてなんのこと?
対前年比マイナス?・・・・わからんけど、今日生きてるのになんでそんな去年と比べないかんの?
この中で「神」は「抽象」の最たるもの。
しかしだ。
全く「貨幣」に対する概念がない未開民や、非常に原始的な言語しか持たない部族でも、神の概念はしっかりとある場合がほとんどである。
何を持ってヒトと動物を分けるかとなると、これらの抽象的な思考ができるかどうかではあるまいか?
もちろん象や犬やネズミの考えはわからないし、何を持って「抽象」とするか?も定義づけなければならないが・・・・
一応そういうことにしておいて(笑)
何を言いたいかと言うと、抽象の最たる「神」の概念こそ、ヒトにとって、ヒトとして、非常に大切なものであるということ。
直立を始めた直後にその概念は形成され始めてのではないかと、私は推測する。
「いや。オレは神も仏も信じない。」
もちろんこういう方はいる。
でも、そう言いながら、宗教的習慣と全く・・・・全く全く全く無縁の生活はしていないはずだ。
今の文明社会ではそれは無理だし、もしそうであっても、たとえば深い深い山奥に入って、樹齢千年の神々しい巨木を目の前にしたとき、心の中に去来するものは何だろう?
「その木を切り倒せ」と言われたら、たとえいたしかたない状況であっても、最初の斧の一振りには躊躇があるはず。それが「畏れ」。
初日の出を見たときの心の中に浮かぶ清々しさ・・・・私はこれらも神を感じる心だと思う。
それが宗教。
後々、宗教をややこしくしたのは、人間の「欲」でしかない。
宗教とか、倫理というもの#2に続く